京都の記録

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記録1 三十三間堂(蓮華王院本堂)

私は三十三間堂の近くに住んでいる。住所・行き先を述べる際にこの寺の名前が入って来てしまうのだが、インターネットか何かの契約時に、相手方にこの漢字を読んでもらえなかったということがあった。意外だった。三十三間堂って読めないものなのか。確かに知らなければ読めないかもしれない。京都の住んでいる人や京都に修学旅行に来たことがある人ばかりではないのだ。なんでもかんでも漢字が読めない人を馬鹿扱いする人間がたまにいるが、非常によくないと思う。ある漢字が読めるかどうかなんてどういう育ちをしてきたかで決まってくるし、一度知ってしまえば当然のごとく読める自分をアピールできてしまう。そしてもちろん三十三間堂が読めないやつは馬鹿なのだろう。

 

 

寺の歴史を述べるは難しい。たいてい誰かが作って、どっかで焼失して、別の時代に再建されて、どうのこうのだ。いまいち何を褒め称えればいいのか、何がポイントなのかがわからないが、簡単にまとめておく。

 

すこしやっかいなのだが、この堂が建てられた場所はもともと別の寺院の敷地内であった。その名は法住寺(ほうじゅうじ)。

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平安時代中期に藤原為光(ためみつ)が作った寺で、サザエさん長谷川町子菩提寺である(遺骨があるらしいっす。これうっとしい情報やな)。為光は娘と奥さんを無くしたことをきっかけにこの寺を建立し、念仏三昧の生活を送った。死後子孫が継いだが、例によって焼失、120年ほど再建されることもなかったようだ。

 

さて、時は平安末期、登場人物は白河天皇後白河天皇 - Wikipedia)である。保元の乱後白河天皇vs 崇徳天皇 勝った その後二条天皇に譲位する。)・平治の乱を経た、平安から鎌倉の激動を生きた人である。彼は院政を停止させられた悲しみから、法住寺の跡に法住寺殿を造営。当時は南殿、西殿、北殿の三御所があった。仏教に深くのめりこむ。「・・・万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ」そして千体の観音堂・蓮華王院を造営する(平清盛が寄進)。その後また院政復帰して、栄華を誇るのだが、源義仲の軍勢によって火にかけられ(法住寺合戦。義仲のクーデター)、殿は焼失、新たに法華堂が建てられ、これは長く存続した。といっても鎌倉時代に焼失し、現在のものは同時代に再建されたものである。