京都の記録

京都の記録

記録2 清水寺

清水寺の観光客は、100%中国人である。異論は認めない。中国人以外が混じっていたとしても、それは誤差であり、誤差であるということは、中国人は100%であるということである。以上。

 

中国人に限ったことではないが、観光地に求めるものはその土地を象徴しているものであり、当然写真にしやすいものである。基本お堂の中の仏像は撮影禁止であるから、仏像押しの寺、三十三間堂とかに行くインセンティブは無いのかもしれない。逆に清水寺は最高スポットだ。京都の景色を一望できるし、建物も絵になる。個性的な写真をとるのが難しいぐらいだ。

 

さて、清水寺は当然京都にあり、京都といえは平安であるのだが、建立はそれ以前である。興福寺の僧、賢心(後に延鎮と改名)は音羽山に遊びにきたときに観音の化身である修行者(行叡)とあい、自らも修行に励む。坂上田村麻呂もやってきて観音にはまってしまって、家を寄進する。その辺が始まりである。

 

平安時代は観音霊場として、縁日などは栄えたようである。興福寺延暦寺の争いに巻き込まれなんども焼失し、現在のものは徳川家光の寄進。

 

本尊は千手観音。脇侍に毘沙門天地蔵菩薩増。33年ごとに開帳の、秘仏である。誰が作ったかは定かではないらしく、ネットで調べてもよくわからない。

 

さて、今昔物語より。これは有名。

 

今は昔、忠明といふ検非違使ありけり。若男にてありける時、清水の橋殿にして、京童部といさかひをしけり。京童部、刀を抜きて、忠明を立てこめて殺さむとしければ、忠明も刀を抜きて、御堂の方ざまに逃ぐるに、御堂の東の端に、京童部あまた立ちて向かひければ、その傍にえ逃げずして、(しとみ)のもとの有りけるを取りて、脇に挟みて、前の谷に躍り落つるに、蔀のもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居るやうに、やうやく落ち入りにければ、そこより逃げて去にけり。京童部ども谷を見下ろして、あさましがりて、立ち並みて見けれども、すべきやうもなくて、やみにけりとなむ。

忠明、京童部の刀を抜きて立ち向かひける時、御堂の方に向きて、

「観音助けたまへ。」



と申しければ、ひとへにこれその故なりとなむ思ひける。忠明が語りけるを聞き継ぎて、かく語り伝へたるとや